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西南戦役の証人(我生家家屋の故事)
         翔ぶが如く<余談>         

本記述の歴史経過の記事は、司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」に基づいての記述です。
 熊本県菊池郡泗水町田島、この地が私を育んだ故郷である。
東に大阿蘇の五岳連山を望み、北には筑肥、久住の山脈が連なり、この山々を源とする菊池川水系の豊かな清流に恵まれ、菊池平野の中央に位置する純農の寒村である。
我生家は先祖代々この地に根付いてきた百姓である。 今日はこの家系の辿り得る最源流である祖祖父に関わる実話を紹介いたしたい。
 この人の姓名、岡本甚蔵。(四十五歳で明治二十年十月四日、破傷風で他界する)
この家には常に自慢の牝馬二頭を飼い、今日は夜明け前に愛馬一頭をつれて、北方十五キロの山村・矢谷(現在の菊鹿町矢谷)に出掛けては、馬の背一杯に木炭を積み、灯火の灯る我が家に辿り着くのを日課としていた。
翌朝未明に、他の一頭に荷を積み替えると、有明の月に足元を確かめながら、熊本の街まで十五キロの野道を歩き、木炭を商った
 このため当時の百姓としては稀有にして、四十余歳の時、明治九年春(1876年、139年前)に、現在の我生家を建立するまでに至った。当時、この地方の百姓家では、藁葺の小さい家が殆どであった中にあっては、瓦葺二階建ての頑丈な家であった。
       昭和31年4月撮影、祖父の姿とイクリの花が懐かしい
        
カライモ苗床と タバコ苗床もまだ健在だ
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 さて、明治十年二月十五日、中央明治政府への燃える野望と夢を胸に、粉雪舞う鹿児島を出発した西郷の大軍団は、宿敵の地熊本に至って、政府軍と初戦を交えた。
熊本城本丸は原因不明の出火により焼け落ちたが、薩摩軍首脳の算用通り落城には至らぬうちに、官軍は、中央政府により募兵された援軍が、続々と戦線に到着した。
 戦線は二月までは、菊池川を境とした交通の要所、高瀬―伊倉の間、山鹿の二地点を主舞台として展開された。
高瀬の戦いでは乃木政府軍陸軍少佐連隊長が、正装を薩軍に奪われたのが有名な話である。
山鹿の薩軍は、人斬半次郎として名高い桐野利秋が主として総指揮にあたった。
この高瀬の戦も薩軍は、官軍の圧倒的勢力の前に後退を余儀なくされ、悲劇の戦場・田原坂の戦線に着くこととなった。この戦、両軍の肉薄攻防は熾烈を極めたが、薩軍の敗北に終わった。 時に
明治十年三月十五日。
山鹿隊の隊長、野村忍介は三月二十日、田原坂戦線の敗戦を知り、熊本方面への撤退を始めた。現在の国道三号線を南下すれば、植木町を通ることとなり、官軍との激突が不可避となるため、現在の国道三号線の約三キロ東を、ほぼ国道に平行して南下するルート・椎持大貫をとった。
このルートに新築したばかりの我家が建っていた。山鹿方面より撤退中の薩軍は、平島(:現在の植木温泉)方面より、田島村の西端、猪の目部落に到着し、数日間我が家に宿営した。
その当時、農家は殆どが麦藁葺屋根家屋であったので、戦争による出火の危険が大きいため、瓦葺の我家が選ばれた。
 薩軍は礼節正しく、この敗戦撤退の中にあっても、地元農民にも細心の心配りをした。我家でも家財道具を隣接空き地に半地下壕を作り、火災から守った。
我家での宿営も時間経過と共に官軍の圧力が高まってきた。
或る朝、宿営隊長が祖祖父を呼び寄せ曰く
    岡本甚蔵、お前はよく我々に協力してくれた
    これ以上居ては、いよいよ迷惑をかけるので、これで撤退する
    お前の協力に対し、感謝のしるしとして、これ(長短二本の刀)を授ける
    薩摩武士の形見として大切にしてくれ
と、二本の日本刀を渡し名残を惜しみつつ別れ、南下して合志川を渡り、対岸の南田島後背の高台、丁塚(ちょうつか)に移動して、陣地を作った。
 一方、官軍は我家の西方に広がる高台の南端にある高台墓地(しもばる墓)に砲台を築き陣地としたため、両軍陣地は合志川を挟んで敵陣を一望する陣形となった。
官軍は
我家前五十メートル余を東西に流れる灌漑用水溝に東西延々と一列となり、終日小銃を発射した。
墓地砲台からは、大砲の大音響が終日轟きわたり、数日間戦は続き、村人達を震え上がらせた。
官軍の発射した大砲の弾丸一発は、薩軍陣地の下段の井戸方部落の中心にあるお寺・
光徳寺の本堂壁を直撃したが、幸いにして出火は免れた。
この合戦の有様を今日に伝える印として、私の幼少の頃、我家前の用水溝でドジョウを獲るのを日課としていた頃、竹ザルの底に小石に交じって、子供の小指先一節程の鉛弾が時折見付ったものである
刀を残し去り行った薩摩勇士の行く末は知る由もないが、あの大西郷と共に転戦して、あの最後の地・城山に至り、戦場の露と果てたのであろうか。
百四十年を隔てた今日、我が祖父が孫息子の寝枕に、何百回となく語ってくれた、薩摩武士と肥後百姓との男心交流の実話物語を紹介した次第である。
 この日本刀二振りは、二次大戦後・我小学生時代まで、家宝として家族で大切にしたが、米軍の刀狩により切断されたことが、誠に以って慙愧に堪えない。
    家前の水田より 阿蘇五岳は今日も小噴火(2015.8.8撮影)

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百四十年が流れて時代も移り、村の景色も地形も高度文明の波によって、大きく姿を変えた今日であるが、遥か東に聳える阿蘇の連山は、永遠の姿を悠然と誇り立ち、その山裾の寒村では、日本文明開化と明治革命の生き証人である 一軒の百姓家が頑強に頑張り続けている。





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by tenpai8 | 2015-09-08 15:30 | 雑感雑記帳 | Comments(0)


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